50周年誌

50周年誌 page 8/20

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Honda Cars Yokosukanishi 50th Anniversary九五八年(昭和三三年)三月、夢に見た大学卒業を果たした。田舎を出て約七年、上京の目的の一つを達成できたことが嬉しかった。第二次世界大戦の敗戦後の混乱と朝鮮戦争....

Honda Cars Yokosukanishi 50th Anniversary九五八年(昭和三三年)三月、夢に見た大学卒業を果たした。田舎を出て約七年、上京の目的の一つを達成できたことが嬉しかった。第二次世界大戦の敗戦後の混乱と朝鮮戦争後の日本経済復興期、労働争議と学生運動の激しい年代だった。マルクス・レーニン主義に没頭したこともあったが、いいことも悪いことも経験した無我夢中の十三年の戦いが終わった。親の反対を押し切って田舎から逃げ出し、金の無いのが一番辛かったが、田舎で百姓やっていたことを思えば何事にも耐えられたし、楽しかったような気がした。負けず嫌いの性格と頑張りが自分を支えてくれたし、素晴らしい人びとと巡り会えたことに感謝している。日本が戦後復興に沸いていた時代で、就職の面接はいくらでもあり、大和運輸・高梨牛乳・銀座山岡毛皮店・本田技研工業など受けた中で、本田技研を選んだ。同年三月二五日、七年あまりお世話になった衣笠病院の先生や看護師さん、大勢の職員、患者さんたち、教会のみなさんに惜しまれながら別れを告げた。葉山町の医師の住まいに下宿して、夜間診療の手伝いをしながら、四月からの本田技研工業の入社の日を待った。「たとへ我・死の谷の陰を歩むとも禍いを恐れじ汝・我と共にいませばなり」(新約聖書・詩編第二十三編)。これは衣笠病院教会牧師の別れの言葉で、今も脳裡を離れない。前に向かって進むことで、貧乏だった青春時代に道を誤ったり、悪の道に迷うことなく、社会人として真っ当な道を歩むことができた喜びを感じた。何事にも屈しないことを学んだ青春時代、あらゆる出来事に対応できる度胸と忍耐力を身につけてさせてくれた病院と教会のみなさんに心から感謝したい。―「買う喜び・売る喜び・創る喜び」   本田技研・世界的視野に立つ・三つの喜び ―一―「成せば為る・成さねば為さぬ・何事も」―一PAGE 005九五八年四月(昭和三三年)本田技研工業に入社した。当時のHondaは、小さな会社で誰も就職希望がなく、自動車免許がものを言ってすぐに採用された。戦後、湯たんぽを燃料タンクにした試作の自転車バイクからオートバイへと伸び盛りで、大きな夢がある企業だと思い応募した。浜松で三か月間の工場研修後、東京駅八重洲口の東京支店に配属された。月島の日本梱包倉庫でオートバイの研修を受けた後、代理店を回り、昭和通りのH o n d a 東京総代理店アートモーターに出向した。自転車屋やモーター屋への卸し販売業務を担当し、中央・千代田・港・文京の四区を受け持った。ちょうど、東京タワー建設の鉄骨の足が見えた時代で、首都高速道路が日本橋本町から鈴ヶ森・平和島まで建設中だった。人と物の移動が変わりつつあるバイク・モペット時代、何十社とある中で、Hondaのオートバイ・チャンネルフレーム旧型ドリームからS A 2 5 0 c c・べンリィJC125ccはあまり売れなかった。代理店確得も難しく、自転車屋の小僧さんたちにも馬鹿にされることが多かった。当時はオートバイの全盛期で、ヤマハとスズキが圧倒的に強く苦戦した。特にヤマハの125cc赤とんぼが強く、スズ