50周年誌

50周年誌 page 5/20

電子ブックを開く

このページは 50周年誌 の電子ブックに掲載されている5ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
Since 1963 を見つけた。ここは旧日本海軍下士官兵集会所・進駐軍が接収した娯楽施設で、跡地には現在高層ホテルと横須賀芸術劇場が建設されている。横須賀へ来て三日後には叔父の家を去り、横須賀大滝町さいか屋前....

Since 1963 を見つけた。ここは旧日本海軍下士官兵集会所・進駐軍が接収した娯楽施設で、跡地には現在高層ホテルと横須賀芸術劇場が建設されている。横須賀へ来て三日後には叔父の家を去り、横須賀大滝町さいか屋前の三浦信用金庫本店の裏通りで、飲み屋「酒の店おさよ」を経営していた従姉宅の二階に住ませてもらった。昼は学校、夜はEMクラブとかけもちで生活し、金が無くなるとさよ姉さんに借りて、なんとか過ごした。EMクラブでの仕事が終わると残パンを食べ、ベース・ゲート前で米軍のバスを待って、十六号線を横浜へ。深夜から朝方まで一晩中、ノースペヤ埠頭(東神奈川瑞穂埠頭)で、朝鮮動乱で韓国から運ばれてきたアメリカ兵の死体の洗浄をした。眠さと寒さと疲労の中、死体一体につき三ドルで夜通し働いた。死体をアルコールで洗い、アルミBOXに納めて、アメリカ本国へ送る仕事だった。一ドル三六〇円の頃だったから、信じられないほど金が入ってきた。でも、そんな生活が長く続くはずがない。疲れを取るため得体の知れない薬物をやったらと言われたこともあった。ドブ板通りのクラブで働き、ポン引きのまね事や外人クラブで掃除の仕事もした。当時のベース前の本町・ドブ板通りは、朝鮮戦争の連合軍の兵士で一晩中賑わい、不夜城と化していた。ドル紙幣が飛び交い、金使いが荒く朝鮮動乱の景気が続いていた。チップも一ドルもらえるのは普通で、五ドルもチップをくれる酔っ払いのアメリカ兵もいた。服や靴も買えたし、金もいくらかできて、このまま働いた方がよいと思ったが、田舎者の自分には派手な生活が合わず恐ろしくなってきた。働き続けていたら、人生が変わったかもしれない。働けばいくらでも金になったが、金は少なくても、昼夜反対の仕事で学校へ行ける仕事場を探すことにした。学校では三年に進級できずに落第し、もう一度二年に逆戻りしたが、生きるためには仕方がなかった。四か月ほど働いたある日、EMクラブの教会で人生の無情を感じ、一人で祈るつもりが寝入ってしまった。牧師さんに起こされて事情を話すと、キリスト教社会福祉法人 日本医療伝道会 衣笠病院で雑用の仕事がある、と教えてもらった。すぐに飛びつき、住み込みで臨時に働くことになった。人間の運命は分からないものだ。ちょうど衣笠病院教会が新しく建築された時期で、教会の屋根裏に堂守りとして住まわせてもらい、食事も病院の食堂で摂ることができた。朝夕、教会の讃美歌が聞こえる生活に最初は戸惑ったが、静寂な世界に溶け込んでいくようだった。賑やかで派手な環境の横須賀中央からは大きな変わりようだった。PAGE 002 衣笠病院で看護師さんたちと(1952年頃)