50周年誌

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Honda Cars Yokosukanishi 50th Anniversary和二六年十一月三日(一九五一年)。十七歳の私は、宮城県古川町(現在、大崎市)の田舎から夜行汽車に乗り、東北本線で東京に向かっていた。大きな希望・夢・不安・怖さ....

Honda Cars Yokosukanishi 50th Anniversary和二六年十一月三日(一九五一年)。十七歳の私は、宮城県古川町(現在、大崎市)の田舎から夜行汽車に乗り、東北本線で東京に向かっていた。大きな希望・夢・不安・怖さ・いろいろな心配を胸に秘め、興奮で一晩中寝ずに、翌朝五時半に上野駅に着いた。大勢の人びとと共に降りたホームは大きく何本もあり、これが東京の上野かと思った。歩く人も、もんぺ姿からスカートに、下駄や地下足袋から革靴に変わっていた。唄の「ああ上野駅」を思い出す。働くために上京する若い人びとの多さにびっくりし、西も東もわからずに、ただ呆然とするだけだった。田舎者が大変な所に来てしまったと思ったが、後には引けない。住み込みで働きながら勉強するつもりだったので、持ち物は教科書少々と着替えだけ。汽車賃を払い残った金は一、五〇〇円あまり。そして、山手線で東京駅へ向かった。初めて汽車から電車に乗り、十三番線で横須賀線に乗り換え、京浜工業地帯を眺めた。社会の授業では習ったが、こんなに長く両側に続いているとは思わなかった。横須賀も東京も同じだと思っていたから、着くまでの一時間半がとても長かった。駅が四つもあり、途中にアメリカの軍艦が見えた。横須賀に来たのは、第二次世界大戦時に二人の兄が横須賀海軍工廠で働いていたことや、叔父が横須賀の不入斗町にいたからだった。幕末の開港のペリー提督記念碑に挨拶し、東京湾の海を眺めながら、今日からどうして生きて行こうと思った。終点の久里浜から京浜急行・湘南井田(北久里浜)で降り、横須賀高校を訪れて転校の手続き書類を提出し、夕方になって不入斗町の叔父の家に辿り着いた。お土産に米五升を持っていったが、歓迎されたのは二日だけで、あとは迷惑そうな雰囲気だった。まずは横須賀高校へ編入の手続きをし、英語の単位が足りなかったが、二年に編入で何とか許可してもらえてほっとした。翌日からは仕事探しを始めた。坂本・坂上から汐入・ドブ板通り、中央駅周辺と賑やかな所を歩き回った。外国人が多く、よその国に来たようだった。横須賀の人びとの景気の良い姿と元気さに見とれ、自分も頑張ればなんとかなると思いながらも、まずは仕事探しと衣食住の確保をしなければならなかった。一九五〇年六月からの朝鮮戦争による朝鮮動乱景気に沸く中、アメリカ海軍基地の食堂EMクラブ(EnlistedMens Club )の皿洗いの募集を見て夢中で飛び込み、仕事―「夢・発見・ドラマ」―昭PAGE 001上京当時(1952年)